hashinozo2’s blog

ビリヤードを楽しもう!

シャフトの違いと2004年総括

MEZZのノーマルシャフトからキースアンディ+314シャフトに変更したことで、球の動きが全く違うものになりました。

 

ノーマルシャフトの時は捻って捻って手球を動かしてポジションし、手球の中心付近を撞くのは明らかに真っ直ぐ気味の球だけ。

なんなら穴振りして捻ったりもしてました。

 

314シャフトを使い始めたら明らかにパワーが違い、それまでの感覚で撞くと手球が予想外の動きをしてしまいポジショニングは苦労しました。

しかし、パワーがあるのでハードショットの時などはキューの力に任せておけばいいと思えるようになり、ノーマルの時には無駄に力が入っていたところが楽になりましたね。

 

あと捻りもノリやすくなったので必然的に手球の中心付近を撞くようになり、ノーマルの時には曲線を描いて走らせていた手球のイメージが、314になったら直線的に走らせているイメージになって全てが変わったような感じでした。

破壊なくして創造なしとはこのことかと。

 

そんな感じだったので大好きなボウラードは150前後をウロウロし、大会に出ても2004年は良い結果が何もなかったですね。

決勝トーナメントに残るのが精一杯だったかな。

 

ただ、APBAの連盟員になって他県の大会にも出場したり、県大会もほとんど出場して『上手くなりたい』という気持ちは強かったですね。

 

 

ここからは余談になるのですが、私と同じ年の人が『タイム田名部』という系列店の別店舗で撞いていました。

その人は私がビリヤードを始めた頃からB級だったのですが、私がA級に上がってもB級のままでした。

 

本人も万年B級かもしれないという気持ちになったのか、上手くなってB級で結果を出してA級に上がりたいと相談してきたんです。

 

私は、「そっちの店舗の環境はわからないけど、こっちにきて撞いてみたら?」と誘いました。

まあこっちの環境が合わなかったら元の店舗に戻ればいいだけですから。

 

で、こっちに撞きにきて「教えてくれ」というのでいろいろ厳しく教えました。

とは言っても彼のほうが球歴は長いですから技術的なことは知ってることも多いので、主に考え方を改善しました。

なんとなく彼の球は誰が見ても先のことを考えてなく、出たとこ勝負でばかり取っていってたからです。

振りの大事さやその振りを作るために入れながらポジショニングする精度など、同じ年ということもありいろいろ言える仲だったので、それはもう厳しく厳しく教えました(笑)

 

そして2004年6月の竜王戦か10月のオータムカップBC級戦のどちらかで、私が運営として見ている前で彼は優勝したのです❗

(どっちだったか定かではない(笑))

 

善広(よしひろ)もプロを目指してレイズ・ブスタマンテのイベント後に関東に行きましたし、いろいろなことがあった2004年でした。

 

 

 

キースアンディとキューケース

2003年か2004年にシミシゲがキースアンディキューの展示即売会としてホームに来ました。

この時はプロは帯同しておらず本当にただの展示即売会でした。

 

こんな田舎にまで来てくれるなんてありがたいことです。

なにしろ青森市八戸市から車で約2時間かかりますから大変だと思います。

 

以前にも記載しましたが、それまではMEZZのラーメン柄みたいなデザインのバットとノーマルシャフトを使っていました。

 

マスターからしきりに「買え買え」と言われたこともありますが、初めてああいうふうにキューを並べて展示されていると全てが良く見えてきます(笑)

 

A級になった頃からマスターには「コグノセンティみたいな黒檀のキューがほしい」と言っていたのですが、ちょうど黒檀で子持ち8剣、スリーブも子持ち8剣という自分好みのキューがあり、勢いで購入することになりました(笑)

 

2シャフト+314シャフトも付けてもらったと思います。それなりの値段がしました(笑)

 

キューケースはそれまで2B4Sの物を使っていましたが、シャフトが多くなるため4B8Sのソフトケースにしました。

 

今では下記のようなカッコいいキューケースがあったりしますが、シンプルなデザインのキューケースだったと思います。

 

バットは自分好みでカッコいいしシャフトは初めてのハイテクということで、これからどんどん上手くなろうとさらにビリヤードに向き合いましたね。

 

最低でも週3~4日は練習し、撞かない時は家でビリヤードのDVDを見ながら筋トレをするという、頭の中はビリヤードのことだけでした(笑)

 

しかしハイテクシャフトに変更したことでどんどん悩むことになります・・・。

 

 

レイズとブスタマンテ

それは2004年2月頃の出来事。

 

会長が「ある人(わかる人にはわかる)から『レイズとブスタマンテのチャレンジマッチをやらないか?』と問い合わせがあったんだよ。どうする?」と唐突に言われました(笑)

 

「またまたー」なんて言ったりしてたけど、本当に話があったらしい。

 

元々は青森県内のどこかの店舗でチャレマを開催しないかという話だったらしいけど、県内どこの店舗もあまり乗り気じゃない様子とのこと。(採算とかあるのかな?まあ店舗の経営をしたことないからわからないけど。)

 

ということで、青森県ビリヤード協会としてレイズとブスタマンテを招聘してチャレンジマッチを開催することになりました❗

 

2004年3月28日、青森県ではまだ雪が残ってる場所がある寒い季節にレイズとブスタマンテは来てくれました❗

 

神様エフレン・レイズの手球コントロールとジャンゴことフランシスコ・ブスタマンテの破壊的なブレイクを実際に見るチャンスなんて当時の青森県ではなかなかありません。

 

結果的にチャレンジする人数が多くなったため、どちらか1人だけにチャレンジするということになり、私は憧れのエフレン・レイズにチャレンジ❗

 

5先の9ボールで行い、結果は3-5で負けましたがそれはそれは幸せな時間でした。

レイズが木製トライアングルでのラックが下手なため(相手ラック)、ブレイク後にトラブルができやすくなりそれが逆にレイズのテクニックを見られて面白かったですね。

 

他の人なんかはレイズがラックしたとこにブレイクしたら4列目に隙間があってエースになってしまい、「1ラック損した」って言う人もいましたね(笑)

 

一大ビッグイベントは大成功に終わり、朝まで接待してレイズとブスタマンテのカラオケも聞くことができてとても楽しかったです。

 

青森県ビリヤード協会 事務長②

青森県ビリヤード協会の事務長としてやったことといえば、トーナメント表・対戦カードの作成、現地での大会運営くらいですかね。

 

大会のポスター作成やエントリー受付などは会長がお店にいる時にやっていました。

 

大会2日前に会長と一緒にトーナメント表と対戦カードを作成し、だいたい土曜日に前乗りして日曜日の大会に備えるという動きをしてました。

私が行かないと大会が開催されないため責任重大でしたね。

 

BC級の運営はだいたい私1人でやっていましたが、当時のBC級戦は80人前後のエントリーがあったためスムーズに進めるのが結構大変でした。

 

運営で気をつけていたことは選手の呼び出しをする時に『◯◯◯(所属店)、◯◯選手、◯クラス』とすることです。

過去に自分が体験したことですが、急に「◯◯選手、◯◯選手、何番テーブルです。」と言っている人がいて、名字しか呼ばないために「誰?誰?どっち?」とかみんなザワザワしたことがあります。

 

前述してますが、参加人数が多いため名字が同じ人はいますし、なんなら同じ所属店で名字が同じでクラスだけ違うという場合もあるんです。

 

なので呼び出しの時には、初めて参加した人でもわかるように丁寧にコールをするように心掛けてました。

 

あとはスタンバイをかけるタイミングも難しかったですね。

なにしろ運営は私1人でしたから、各テーブルの進捗状況を把握するのは難しいので苦労しましたね。

スタンバイをかけてすぐに試合っていう人もいたと思います(笑)

 

私、他人の球撞きを見るのが好きですし、運営として大会をコントロールするのが好きなので凄く面白かったです。

 

オールクラスの大会ではAPBAの連盟員の人などが運営を手伝ってくれて、「ハッシーはBC級とか1人で運営してるから今回は休んでていいよ。選手として頑張って。」って言われた時はなんか嬉しかったですね。

 

2004年、2005年の2年間だけ青森県ビリヤード協会の事務長をやらせてもらいましたが、選手としても頑張っていたので凄く充実した2年間でした。

 

 ※当時の青森県ビリヤード協会は任期が2年と決まっていて、ほとんどの場合2年で交代になっていた。

 

 

ConoHa WING

青森県ビリヤード協会 事務長

2003年の暮れだったか2004年1月に、当時ホームにしていた『タイム大湊』のマスター(兼自分の師匠)から、「2004年と2005年の2年間、青森県ビリヤード協会の会長をやってくれないかと現会長から打診されている。お前が事務長として動いてくれるなら会長を引き受けるがどうしようか?」と相談がありました。

 

青森県には、『青森県ビリヤード協会(ABA)』と『青森県ポケットビリヤード連盟(APBA)』があります。

 

APBAはJAPAの傘下にあり、俗に言う連盟員が所属しています。

5月青森県チャンピオンシップ

定例会などを管理していたと思います。

 

 

ABAは単純にAPBA以外の県大会を管理しています。

2004年は

3月スプリングカップBC級戦(当時はA級戦は無い)

4月チーム戦

6月竜王戦(BC級に)

7月キリンカップ(オールクラス)

10月オータムカップBC級戦(当時はA級戦は無い)

11月マルサンカップ(59の大会)

という大会の管理をしていたと思います。

 

この頃の自分はビリヤードのことならなんでも携わりたいと思っていて、大会に参加してても『こうしたほうがいいんじゃないか』と思う部分があったりしたので、二つ返事でOKしました。

 

そして引き継ぎがあり、2004年から青森県ビリヤード協会の事務長として活動することになりました。

 

 

ConoHa WING

ビリヤードA級時代(2003年)

2003年4月のチーム戦で優勝という幸先の良いスタートを切りました。

 

そして5月の青森県チャンピオンシップにA級として初めてエントリーしました。

この大会も当時130名前後の参加者があったと思います。

 

予選を勝ち進み、決勝トーナメントに残ることができただけでも上出来なのですが、なんとベスト8に残るというミラクルが起きました❗

約20年前のことなので細かいことは忘れてしまい、なんならベスト8に残ったのは2004年だと勘違いしていたくらい覚えてません(笑)

ただ、記念のメダルが残っていたので2003年で間違いないでしょう(笑)

 

 

その後は

7月のキリンカップ

11月のマルサンカップ

(大会名と時期は当時のまま)

と出場しましたが上位に残ることはできませんでした。

 

当時の青森県はビリヤード人口が多く、オールクラスの大会(上記3大会)は毎回130名前後の参加者がいて、その数年後には出場者30名を切るようになるとは想像ができないくらい、青森県のビリヤード界はかなり盛り上がっていたと思います。

 

また、当時の自分には他店のハウストーナメントやマンスリートーナメントに参加するという考えは無く(開催日など知らなかった)、県の大会が全てという感じでビリヤードをやってました。

 

 

次は2004年の出来事になります。

 

 

ConoHa WING

チーム戦

2003年当時、青森県には『チーム戦』という大会がありました。

 

フォーマットは

・1チーム4人

・チームハンデは17 A5 B4 C3

 (4人で17なのでA級4人で組むことはできず、AAACのチームも組めない。このハンデ数が絶妙。)

・1番手から4番手を最初に登録したら最後まで番手を変えることはできない。

・2勝2敗で並んだら番手の順番でセンターショット対決(これが盛り上がる)

・ゲームは9ボールで対戦

 

これは2003年当時のフォーマットでしたが、私が青森県を離れてから変更になったルールもあるかもしれません。

 

私はこの時B級として出場しました。

チームとしてはAABCという組み合わせでハンデ17です。

参加チームは30チーム前後はあったと思います。

 

4人の中で勝ったり負けたりがあるので結構2勝2敗で並んでのセンターショット対決になりがちなんですが、この時の自分のチームは必ず3勝1敗か4勝となって勝ち進みました。

 

あれよあれよという間に勝ち進み、なんと優勝‼️

 

自分の成績は3勝4敗でしたが、本当に勝ち負けが偶然にも上手くいって優勝することができました。

 

自分的にはこれで本当にB級卒業となります。

 

このチーム戦、今は無くなってしまいましたがいつかまた当時のフォーマットで復活してほしいですね。

 

 

ConoHa WING